http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2017/1201.html

金銭評価と真価 真贋には心眼を持って

2017年12月1日付 中外日報(社説)

レオナルド・ダヴィンチ作とされるキリスト肖像画「サルバドール・ムンディ(救世主)」が先頃、日本円にして約510億円で落札された。価格としては過去最高額である。到底美術館で購入できる金額ではなく、一部の投資ファンドが資金力にあかせて落札したのではないかという噂だ。1958年にこの絵が競売にかけられた時には、複製画と見なされて6千円程度の値しかつかなかったという。その後、専門家による修復と鑑定を経て真作とされ、このような桁外れの落札価格になった。

考えてみれば不思議な話である。優れた絵画は作者が誰であろうと、優れた絵のはずである。ダヴィンチが描いたからといって評価額がかくも暴騰するということは、絵そのものの芸術性に着目していなかったということにもなってしまう。

ゴッホの作品はどんな小さなスケッチでも大変な高値がつく。彼は生前にはほとんど絵が売れず、困窮の中に37歳で自らの命を絶った。せめて生きているうちに一枚でも適正な値段で売れていれば、暮らしも楽になっていただろうに。彼の生前、美術商や批評家たちはどこに目を付けていたのだろうか。

その一方で、本物だと思われていた美術品が贋作であると判明した場合、その価値も価格も暴落してしまう。それなら、本物だと思っていた時の評価とは一体何だったのか。見る人々が幻想を織り込んでいただけだったのだろうか。

卓越した人物の名前があることによって、作品からその精神や力量を改めて知るというのは、確かにその通りである。その一方で、無名の人の優れた作品が埋もれてしまったり、虚名ばかりが喧伝されている作品も世間には少なくない。何といっても毀誉褒貶の世の中だ。物の真贋を見抜くためには、こちらも心眼を鋭くしておかなければならない。

宗教の場合も同様のことが言えるように思う。そもそも宗教の教えとは、特定の誰かが説いたから優れたものではなく、教えそのものが優れていれば、それは優れた教えだという見方もあり得る。やはりここでもまた真贋を見抜くために、一人一人が心眼を養っていくことが求められる。

そしてその上で、宗教者もまた世間における名前や評判に過剰に反応するのではなく、むしろ自らが神仏から注目され評価されることにこそ意を用いるべきである。神仏に照準を合わせた生き方を貫いていけば、いずれ必ず心眼を有する人々から着目されてくるはずだろうからである。

記憶のメカニズム ー禅僧の徒然日記

記憶のメカニズム

記憶とは恰も磁気テープに記録されたモノのように存在するのではなく、例えば五年前にこんなことがあった、十年前にあんなことがあったと想い出すことがあるが、それは日記なり記念品があるから、それを手がかりに過去の順番をかろうじて跡づけられるので、十年前のことが五年前のことより、より遠い昔のことだと実感することはできない。つまり時間経過の順に物事を記憶しているのではなく、過去をおぼろげながらにしか想起できないのだ。此処に記憶の正体がある。人間の記憶とは想起した瞬間に作り出されている何ものかなのである。つまり過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。ビビットなものがあるとすれば、それは過去がビビットなのではなく、たった今、ビビットな感覚の中にいるということである。私達が鮮烈に覚えている若い頃の記憶とは、何度も想起した記憶のことで、あなたが何度もそれを思いだし、その都度いとおしみ、同時に改変してきた何かのことなのである。

禅僧の徒然日記

十人十色

人の性格は様々で、いきなり相手をガツンとやる圧力型タイプがあるかと思えば、万事に控えめで、じ~と相手の言葉に耳を傾ける温和しタイプがある。どちらが良いかという問題ではなく、これは性格の違いである。ややもするとそう言う人間のタイプの方に気持ちが行って、あいつは良いがこいつは駄目だという評価をしがちである。しかし外に現れる部分より、その人が正しい見地を掴んでいるか、真っ直ぐな人生観を持っているかが重要である。近頃は我々僧侶の世界でも、外国へ行って禅会を開き、修行の指導をしてきたなどと言うことが一つのステータスのようになっている。別にとやかく文句を言う筋合いではないが、それよりも足下の日本の若者を鍛えて有為な人材を地道に育てて行くことの方が遙かに重要である。本当に修行したければこっちへ来てやれば良い。さて最も重要なのは真正(しんしょう)の見解(けんげ)である。苦と楽・善と悪・愛と憎、そう言う二元的対立の世界から、何ものにも束縛されない正しい生き方が出来ているかどうかである。そこに人間そのものの価値がある。真実この「無」が解っていれば、強いて求めなくとも自ずから行いが正しくなる。人に惑わされるな、地位や名誉に騙されるな、外観の何ものにも惑わされるな。何ものにも騙されぬ人になれ。これが臨済禅師の教えである。

身是菩提樹、心如明鏡臺

身是菩提樹、心如明鏡臺
みはこれぼだいじゅ、こころはみょうきょうだいのごとし

『無文全集』第6巻「六祖壇経」
山田無文著・2004.1 禅文化研究所)より

 偈に曰く、身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時々に勤めて払拭(ほっしき)して、塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむること勿かれ
これは今日、六祖の詩に較べてつまらない詩だと、非常に劣っておるように皆が申すのでありますが、これはなかなか立派な詩だと私は思うのであります。この詩のとおりに修行をすれば、確かに悟りが開けるわけであります。
 「身は是れ菩提樹」、お互いの体は悟りの樹だ、悟りの花を開く大事な菩提の樹である。お互いはこの体というものを大切にしなければならんわけであります。命というものを大切にしなければならんわけです。しかも、「心は明鏡台の如し」、心は鏡のような美しいものである。心は本来、明鏡のようなきれいなものである。そのとおりだと思うのであります。私どもがお話をいたすのにも、このとおりに申すのであります。
 先日も山陰の方へまいりましたら、青年が是非とも座談会をしてくれと言うので行ってみますと、いろんな質問が出ました。その中に、「有り難いということはどういうことですか。有り難い、有り難いと私どもは申しますが、有り難いとはどういうことですか」と、こういう質問があったのであります。有り難いという言葉は、仏教の言葉だと私は思うのであります。『法華経』の中にも「有り難し」という言葉はあります。『法句経』などにも、「人間に生まるること難し、死すべきものの命あるは有り難し、正法を耳にするは難し、諸仏の出世に会うこともまた有り難し」という言葉があります。有り難いということを普段使いますが、多くの場合、物をいただいた時、「ありがとうございます」と申します。自分の生活の上に何かがいただけた時に有り難いと申すのであります。物が「有り難い」ということは、「滅多にない」ということであります。滅多にないものは有り難いのであります。戦争中でありましたら薩摩薯(さつまいも)一ついただいても有り難い、米一升いただいても貴重品だ、有り難い。物が有り難いということは、物が少ない時に有り難いのである。今日のように物が出廻ってきますというと、物がちっとも有り難くなくなる。
 鈴木大拙博士がよく言われるのでありますが、「アメリカへ行って一番困るのは、まったく物が多すぎて、われわれには勿体なくてかなわん。われわれのように日本の禅宗の教育を受けた者は、物が勿体なくてかなわん。買い物に行けば大きな紙に包んでくれて袋に入れてくれるが、そういう物を取っておけば邪魔になるし捨てんならんが、勿体なくてかなわん。そういう物を処置するだけでも、また人を頼まんならん。そうして物はどんどん使っていかんというと生産者が困る。どんどん使っていかにゃいかん。禅宗の教育みたいに包んであるものの紐をきれいに丁寧にほどいて、それをからげて取っておく、包み紙はしわを伸ばして取っておく。そういうことなんぞしておったら物が余って困る。どんどん使わんことには生産者が困る。消費するほど生産者が助かるのだから、消費しなくちゃいかん。そういう生活はわれわれにはどうもぴったりせん」ということを言われております。物が豊かになればなるほど、物はちっとも有り難くなくなる。
 お経には有り難いという言葉は使ってありますが、これは決して物には使っていない、物が有り難いなんて書いていない。「人間に生まるること難し、死すべきものの命あるは有り難し」、有り難いというのは人間に生まれたこと、今日生きておることが有り難い、命だけは有り難い。これはどんなに物質が豊かになってもそのとおりだ。アメリカだってそうだ。命というものは一つしかないのであります。かけがえのないものであります。無常迅速である。この命だけは有り難い、二度とない、滅多にない。「人間に生まるること難し、死すべきものの命あるは有り難し」、その命が有り難いだけでなくして、この命が本当に生きていく、本当の人生を生きていく道を教えてもらうということが有り難い。「正法を耳にするは難し、諸仏の出世に会うこともまた有り難し」、そこで仏法の方で有り難いということは、法が聴けるということが有り難いのだ。法を体得した仏、自覚者に会えるということ、仏法を聴けるということ、法の体得者に会えるということが有り難いことだと。まさにそのとおりであります。
 そこで、「身は是れ菩提樹」でありますから、体は悟りの花を開く樹である。命あって初めて悟りが開けるのであります。この命というもの、体というものはまさに菩提の樹であって、これは大切にしなければならんものである。しかも「心は明鏡台の如し」。これはもう私どもが始終申し上げることで、われわれの本性というものは鏡のようなものだ、一点の曇りのない大円鏡智という大きな円い鏡のような智慧、そういうものがわれわれの本性である。鏡のようなきれいな心が本性である。経験以前、知識以前の心というものは鏡のように何にもないものだ。自性清浄心であります。人間の本性は清浄無垢だ。あるいは中国の言葉で申しますならば、聖人の心は明鏡止水(めいきょうしすい)だ。きれいな鏡の曇りなきがごとく、池の水が澄んで波が立たんような澄みきったものが聖人の心であります。日本の神という言葉、神さまの神という言葉も鏡がつまって神になったと申すのでありますから、神さまも鏡のような心である。「此の宝鏡を視(み)まさんこと、当(まさ)に吾れを視るが猶(ごと)くすべし」と天照大神は御孫、に鏡を渡されたと申しますが、それはこの鏡が私の持っておった記念の品だという意味ではなくして、鏡のごとく曇りのない心が神の心だぞと、こうお示しになったものだと受け取れるのであります。御神前にはどこでも鏡が供えてありますが、「心は明鏡台の如し」、われわれの生まれたままの心は鏡のごとく清浄無垢なものであります。その鏡のような清浄無垢な心に雲がかかると、塵(ごみ)がかかるとその鏡が現われないのだ。その鏡の光が現われないのだ。妄想の雲がかかって煩悩の塵がかかり、そうして心を晦(くら)ましておりますから、そこで、「時々に勤めて払拭して、塵埃をして惹かしむること勿かれ」、常にその塵を払い、埃を払い、曇りを拭(ぬぐ)い、そうして塵や埃がその心の本性にかからんように努力していかにゃいかん。坐禅をするということは、その塵を払うことである。念仏を唱えるということはその曇りを拭うことである。そうして、いつも本来の清浄無垢な鏡のような心で、毎日、日暮らしをしなければならんと、こう示されておるのでありますから、これは決して悪い詩ではなくして、大変結構な詩であります。

禅僧の徒然日記

十人十色

人の性格は様々で、いきなり相手をガツンとやる圧力型タイプがあるかと思えば、万事に控えめで、じ~と相手の言葉に耳を傾ける温和しタイプがある。どちらが良いかという問題ではなく、これは性格の違いである。ややもするとそう言う人間のタイプの方に気持ちが行って、あいつは良いがこいつは駄目だという評価をしがちである。しかし外に現れる部分より、その人が正しい見地を掴んでいるか、真っ直ぐな人生観を持っているかが重要である。近頃は我々僧侶の世界でも、外国へ行って禅会を開き、修行の指導をしてきたなどと言うことが一つのステータスのようになっている。別にとやかく文句を言う筋合いではないが、それよりも足下の日本の若者を鍛えて有為な人材を地道に育てて行くことの方が遙かに重要である。本当に修行したければこっちへ来てやれば良い。さて最も重要なのは真正(しんしょう)の見解(けんげ)である。苦と楽・善と悪・愛と憎、そう言う二元的対立の世界から、何ものにも束縛されない正しい生き方が出来ているかどうかである。そこに人間そのものの価値がある。真実この「無」が解っていれば、強いて求めなくとも自ずから行いが正しくなる。人に惑わされるな、地位や名誉に騙されるな、外観の何ものにも惑わされるな。何ものにも騙されぬ人になれ。これが臨済禅師の教えである。