金銭評価と真価 真贋には心眼を持って ー中外日報(社説)
「物の真贋を見抜くためには、こちらも心眼を鋭くしておかなければならない。」
メディア、特にインターネットの世界ではあらゆる情報に溢れ玉石混淆であるが、そこから正しい情報を得るにも心眼を鋭くしておかなければならないでしょう。
その心眼を養うのは、周りに左右されず本来の自己を客観的に見つめる力を養い、精進して行くこと、そのためにも坐禅がいいと思っています。
本文以下:
金銭評価と真価 真贋には心眼を持って
レオナルド・ダヴィンチ作とされるキリスト肖像画「サルバドール・ムンディ(救世主)」が先頃、日本円にして約510億円で落札された。価格としては過去最高額である。到底美術館で購入できる金額ではなく、一部の投資ファンドが資金力にあかせて落札したのではないかという噂だ。1958年にこの絵が競売にかけられた時には、複製画と見なされて6千円程度の値しかつかなかったという。その後、専門家による修復と鑑定を経て真作とされ、このような桁外れの落札価格になった。
考えてみれば不思議な話である。優れた絵画は作者が誰であろうと、優れた絵のはずである。ダヴィンチが描いたからといって評価額がかくも暴騰するということは、絵そのものの芸術性に着目していなかったということにもなってしまう。
ゴッホの作品はどんな小さなスケッチでも大変な高値がつく。彼は生前にはほとんど絵が売れず、困窮の中に37歳で自らの命を絶った。せめて生きているうちに一枚でも適正な値段で売れていれば、暮らしも楽になっていただろうに。彼の生前、美術商や批評家たちはどこに目を付けていたのだろうか。
その一方で、本物だと思われていた美術品が贋作であると判明した場合、その価値も価格も暴落してしまう。それなら、本物だと思っていた時の評価とは一体何だったのか。見る人々が幻想を織り込んでいただけだったのだろうか。
卓越した人物の名前があることによって、作品からその精神や力量を改めて知るというのは、確かにその通りである。その一方で、無名の人の優れた作品が埋もれてしまったり、虚名ばかりが喧伝されている作品も世間には少なくない。何といっても毀誉褒貶の世の中だ。物の真贋を見抜くためには、こちらも心眼を鋭くしておかなければならない。
宗教の場合も同様のことが言えるように思う。そもそも宗教の教えとは、特定の誰かが説いたから優れたものではなく、教えそのものが優れていれば、それは優れた教えだという見方もあり得る。やはりここでもまた真贋を見抜くために、一人一人が心眼を養っていくことが求められる。
そしてその上で、宗教者もまた世間における名前や評判に過剰に反応するのではなく、むしろ自らが神仏から注目され評価されることにこそ意を用いるべきである。神仏に照準を合わせた生き方を貫いていけば、いずれ必ず心眼を有する人々から着目されてくるはずだろうからである。
2017年12月1日付 中外日報(社説)
http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2017/1201.html
記憶のメカニズム ー禅僧の徒然日記
記憶のメカニズム
記憶とは恰も磁気テープに記録されたモノのように存在するのではなく、例えば五年前にこんなことがあった、十年前にあんなことがあったと想い出すことがあるが、それは日記なり記念品があるから、それを手がかりに過去の順番をかろうじて跡づけられるので、十年前のことが五年前のことより、より遠い昔のことだと実感することはできない。つまり時間経過の順に物事を記憶しているのではなく、過去をおぼろげながらにしか想起できないのだ。此処に記憶の正体がある。人間の記憶とは想起した瞬間に作り出されている何ものかなのである。つまり過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。ビビットなものがあるとすれば、それは過去がビビットなのではなく、たった今、ビビットな感覚の中にいるということである。私達が鮮烈に覚えている若い頃の記憶とは、何度も想起した記憶のことで、あなたが何度もそれを思いだし、その都度いとおしみ、同時に改変してきた何かのことなのである。
禅僧の徒然日記
十人十色
人の性格は様々で、いきなり相手をガツンとやる圧力型タイプがあるかと思えば、万事に控えめで、じ~と相手の言葉に耳を傾ける温和しタイプがある。どちらが良いかという問題ではなく、これは性格の違いである。ややもするとそう言う人間のタイプの方に気持ちが行って、あいつは良いがこいつは駄目だという評価をしがちである。しかし外に現れる部分より、その人が正しい見地を掴んでいるか、真っ直ぐな人生観を持っているかが重要である。近頃は我々僧侶の世界でも、外国へ行って禅会を開き、修行の指導をしてきたなどと言うことが一つのステータスのようになっている。別にとやかく文句を言う筋合いではないが、それよりも足下の日本の若者を鍛えて有為な人材を地道に育てて行くことの方が遙かに重要である。本当に修行したければこっちへ来てやれば良い。さて最も重要なのは真正(しんしょう)の見解(けんげ)である。苦と楽・善と悪・愛と憎、そう言う二元的対立の世界から、何ものにも束縛されない正しい生き方が出来ているかどうかである。そこに人間そのものの価値がある。真実この「無」が解っていれば、強いて求めなくとも自ずから行いが正しくなる。人に惑わされるな、地位や名誉に騙されるな、外観の何ものにも惑わされるな。何ものにも騙されぬ人になれ。これが臨済禅師の教えである。
身是菩提樹、心如明鏡臺
『無文全集』第6巻「六祖壇経」 |
偈に曰く、身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時々に勤めて払拭(ほっしき)して、塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむること勿かれ |
禅僧の徒然日記
十人十色
人の性格は様々で、いきなり相手をガツンとやる圧力型タイプがあるかと思えば、万事に控えめで、じ~と相手の言葉に耳を傾ける温和しタイプがある。どちらが良いかという問題ではなく、これは性格の違いである。ややもするとそう言う人間のタイプの方に気持ちが行って、あいつは良いがこいつは駄目だという評価をしがちである。しかし外に現れる部分より、その人が正しい見地を掴んでいるか、真っ直ぐな人生観を持っているかが重要である。近頃は我々僧侶の世界でも、外国へ行って禅会を開き、修行の指導をしてきたなどと言うことが一つのステータスのようになっている。別にとやかく文句を言う筋合いではないが、それよりも足下の日本の若者を鍛えて有為な人材を地道に育てて行くことの方が遙かに重要である。本当に修行したければこっちへ来てやれば良い。さて最も重要なのは真正(しんしょう)の見解(けんげ)である。苦と楽・善と悪・愛と憎、そう言う二元的対立の世界から、何ものにも束縛されない正しい生き方が出来ているかどうかである。そこに人間そのものの価値がある。真実この「無」が解っていれば、強いて求めなくとも自ずから行いが正しくなる。人に惑わされるな、地位や名誉に騙されるな、外観の何ものにも惑わされるな。何ものにも騙されぬ人になれ。これが臨済禅師の教えである。