(瑞龍寺)禅僧の徒然日記 2016.7.23

現代凡そ「つつしみ」とか「わきまえ」というものがなくなった。昔は良かったな~などと言うと、若い連中から、また年寄りはそんなことばっかり言うと非難 される。便利で効率的で良い面も沢山あり、日々我々老人も若者同様にこの便利さを享受しているのだが、一方で時間に追われてせかせか日々過ごしているよう な落ち着きのなさも感ずる。なかでも失われたものの一番は、「つつしみ」と「わきまえ」である。若い娘が電車の通路にしゃがみ込んで平気でパンにかぶり付 いているなどは論外だが、凡そ慎みがなくなった。これは天明寛政の頃の話だが、ある僧が木曽山中で馬に乗った。道の険しいところに来ると、馬子は馬の背の 荷に肩を入れて「親方、危ない」と言って助ける。度々なので僧がその故を問うと、おのれら親子四人、この馬に助けられて露の命を支えておりますゆえ、馬と は思わず親方と思っていたわっているのです、と答えたと言う。難所にかかると馬子が馬に励ましの言葉をかけ通しだったと記している。こう言う情愛は牛・ 鳥・犬・猫に到るまで及んだようだ。現代も犬や猫を可愛がる人は多いが、その情愛においてちょっと質が違うのではないかと思う。江戸期の日本人はこの男に 限らず、馬を始め全ての動物に対し、自分達家族と同等の一員と見なしていたようである。それは自らに対する「つつしみ」から出ていると言う点が、現代と大 いに違うのだと思う。