【施 光恒】日本の平等 | 「新」経世済民新聞

 

【施 光恒】日本の平等

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

おはようございます(^_^)/

私、少し前から、「福岡県明るい選挙推進協議会委員」というボランティア的仕事を務めています。
県の選挙管理委員会などと協力して、みんな選挙に行きましょう!とか、政治に関心を持ちましょう!とか、呼びかけるのが主な役割です。

昨日は、その仕事で、福岡県の西部にある糸島市で講演をしました。
演題は、「民主主義と日本文化──伝統を明日に活かそう!」というものでした。

現代の日本人は、日本の歴史や文化を自虐的というか、悪くみすぎる傾向がありますよね。
日本は、どこかの国とは反対に、「悪いものは自分たちの伝統であり元々あるものだ。他方、良いものは外からやってきたのだ」と考える傾向があるような気がします。

当メルマガの私の前回の記事で触れた「体罰」もそうですし、「民主主義」に関しても、そのケがあると思います。

つまり「民主主義」に関していえば、「日本の伝統は、非民主主義的で、権威主義的である。オカミは威張っていて専制的だった。身分の低い者はずっと虐げられてきた」などのような見方です。

ですが、日本の歴史や文化には、民主主義的な要素といえるものが結構あります。
昨日の講演では、日本の伝統の中にある民主主義的要素をいろいろと指摘して、そういうよいと思われるところを受け継いで、時代に合うかたちで伸ばしていこう!というような話をしました。

話題の一つとして、「和歌の前の平等」という考え方に触れました。
もうかなり前ですが、評論家の渡部昇一氏が『日本語のこころ』(講談社現代新書、1974年)で論じていたものです。

西洋の平等観の基礎には、キリスト教的な「神の前の平等」や、「法の前の平等」といった理念があると言われますよね。

他方、渡部氏によれば、日本の平等感覚の基礎にあるのは、神や法の前の平等ではなく「和歌の前の平等」だというのです。和歌の詠み手として、人々は、身分に関係なく平等だというわけです。実際、『万葉集』には、皇族や貴族だけではなく、地方の農民や防人、遊女の歌も収められていますよね。

だいぶ以前に「和歌の前の平等」という見方について初めて読んだときは、「おもしろいけど、ホントにそういえるのかな?」と少々ピンと来なかったのですが、最近、この見方、わりと説得力あるんじゃないかと感じています。

歴史社会学者の池上英子氏(米国ニュースクール大学大学院教授)は、明治日本が欧米の制度を学び急速に近代化できた理由の一つとして、江戸時代の芸事のサークルに注目しています(『美と礼節の絆──日本における交際文化の政治的起源』NTT出版、2005年)

江戸時代には、俳句をはじめ、お茶やお花など芸事のサークルが非常に多くできていました。そして士農工商の身分はあまり意識されず、芸事のサークルには各層の多数の人々が参加していました。

池上氏は、芸事のサークルは、江戸時代の人々が、身分に囚われないヨコの人間関係を学ぶ場として機能したのだというのです。江戸時代のあいだに、武士や裕福な商人のみならず、一般の町人や農民まで含む多くの人々が芸事に親しみ、身分制度から離れたヨコの人間関係のありかたを学んでいた。そのことが、明治の近代化をスムーズに進めることができた理由の一つだと論じています。

たとえば俳句のサークルです。江戸時代の俳句のサークルでは、武士も町人も農民も、男性も女性も、都市の人も田舎の人も、俳句を通じて身分差や性差や地域差にあまり囚われず交流することができたようです。

たとえば、芭蕉が「奥の細道」を旅することができたのは、東北の当時のひなびた地域でも、俳句愛好家がたくさんいて各々の場所で歓待してくれたからでしょう。農村にまで、俳句に親しむ人が大勢いたようです。

また、女性が句会に参加することも決して珍しいことではなかったようです。女性の俳句だけを集めた句集も、江戸時代にたくさん出ています(別所真紀子『俳諧評論集 共生の文学』東京文献センター、2001年)。

朝顔に つるべ取られて もらい水」(加賀千代女(かがのちよじょ)(1703−1775)

などは有名な句ですよね。

無名の子どもの俳句も、残っています。『俳諧三河小町』(1702年)という句集には女性の句だけを集めた巻があり、次のような女児のかわいらしい句が載っています。

「いまいくつ 寝たらば父様 羽根つくぞ」(大坂 八歳 はる)

300年以上前の子も、お正月に、お父さんと羽根つきをしたりして遊ぶのを楽しみにしてたんですね。いいなあ。
(^_^)

ちょっと脱線しました…
(-_-;)

話をもとに戻しましょう。

渡部氏や池上氏の議論から推測できるのは、日本文化には、「感受性の平等」とでもいうべき感覚が伝統的にあったのではないかということです

そのときどきの時代状況に応じて身分や職位など上下の人間関係が設定されるとしても、美しさやうれしさ、かなしさなど「もののあはれ」を感じとる点では、人々は根本的に平等で同じである。つまり、感受性の主体という点で、人は皆、平等であり仲間である。そういう感覚が、日本人には昔から備わっていたのではないかと思います。

この感覚は、現在のわれわれにも受け継がれているといえるでしょう。

たとえば、地方自治体が小中学生などからよく募集している「人権標語」などをみているとそれを感じます。
だいたいこんな感じのが多いですよね。(以下は、2010年度、2011年度の福岡市の人権標語コンテスト入選作の一部)。

・悪口は 人も自分も 傷つける(小学生)

・持ってるか 傷付け言葉の ブレーキを(中学生)

・いじめたら キレイな心 涙色(小学生)

・わたしから みんなに広がれ 笑顔の和(中学生)

これらの標語は、「人は皆、傷つきやすい心をもっていて、悲しんだり、笑ったりする存在だ。その根本的な点で、人は結局、皆、平等であり、大事にすべき仲間なんだ」と言っていると解釈できると思います。

欧米的な「法の前の平等」「神の前の平等」とは、かなり違うところに根差した平等観だといえます。

日本の人権教育だと、欧米のように「法の前の平等」に訴える法学っぽい人権教育ではなく、「感受性の平等」に訴えかける文学っぽいやり方が一般的なようなんですね。

他に、「もののあはれ」を感じ取る「感受性の平等」という感覚がいまでも生きていることを示すもっと身近な例としては、お花見もあげられると思います。

お花見はいまでも結構、職場の人と行くことが多いですよね。お花見では、きれいな桜を前にして、「桜を美しいと思う心の点で皆平等であり、仲間である」という確認を半ば無意識に行っているといえるんじゃないでしょうか。

つまりお花見とは、桜を前にして心が動かされる共通の経験を通じて、皆の根本的な平等を確認し、職位や世代などを超えた職場の和を深める行事だとみることもできるでしょう。

またまた、だらだらと長くなってきました…
f(^_^)ポリポリ

で、結局何がいいたいかといえば、日本社会って、なんだかんだいっても人々は根本的には平等で仲間なんだという感覚が、昔からわりとしっかりある社会ではないだろうかということです。

国民の間にある根本的な平等感覚や仲間意識こそが、日本の国力の源泉なんですよね。今も昔も日本社会の強みは、格差が少なく、社会からひどく取りこぼされてしまう人々があまりおらず、大勢の一般庶民が積極的に社会参加し、活力を発揮し、協力するところにあるんだと思います。

会社の経営陣と従業員の給与の差が何百倍もあったり、「抵抗勢力などと称して国内に敵を作って上からの政治を進めていったりする近年の新自由主義というのは、やはり国柄に合わない気がします。

財界だけでなく農林水産業、大企業だけでなく中小企業、都市だけでなく地方──など社会の各層の声に耳を傾ける政治のほうが、合ってるよなあと思うんですよね…。

まとまり悪くなってしまって失礼しますた…
<(_ _)>

PS
TPP参加は、経済主権の喪失⇒民主主義の喪失の第1歩。
「グローバル資本家の植民地」韓国の二の舞にならないために、
いま、必要な準備とは?

http://www.keieikagakupub.com/sp/CPK_38NEWS_C_100/index_tp.html

PPS
中野剛志氏と一緒に、こんな本を書いています。
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