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現代住宅併走 33
磯崎新のデビュー作の新宿ホワイトハウスがまだ残っている」と赤瀬川原平さんから聞いたのはいつのことだったか。言われた辺りを探してみたが、新宿の変化は激しく、もう壊されたとしか思えなかった。磯崎さんに聞いても、「原平がそう書いているが、そもそも本当に自分が設計したのか記憶は定かでない」。にもかかわらず、なんの根拠によるのか、赤瀬川さんは「残っている」と言い続けた。
今から6年前の2010年10月末、事態は急変する。赤瀬川さんから電話が入り、「新宿ホワイトハウスの今の持ち主の宮田佳さんがイギリスから一時帰国し、連絡があった。一緒に見に行こう」。
新宿ホワイトハウスは、1957(昭和32)年、若き前衛芸術家の吉村益信のアトリエ兼住宅として建てられ、その後、画家の宮田晨哉氏に譲られた。今は姪の佳さんが所有し、知人が「カフェアリエ」として使っておられる。
赤瀬川さんと一緒に中に入ったとき、旧状がよく残っているのに驚き、ここで関係者の座談会を開いておく必要を感じ、『新建築』にお願いした。肝心の吉村さんは伊豆に引っ込んで久しく、はたして来てくれるのか当日まで不安だったが、病を押して来てくれ、充実した座談会となった。その2週間後、一人暮らしの吉村さんは伊豆で亡くなられた。
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アトリエ
ホワイトキューブのアトリエはロフトをもち、ロフトへは階段で上がる。階段とロフトとの接合の仕方は、とても大工の仕事とは思えず、磯崎のディテールではないかと推測する。 -
外観
塀や入口もほぼ昔のまま。「青年芸術家の集団は大人気で、若い女性たちが群れて塀の上からアトリエ内を覗き、キャーキャー騒がしかった。そのなかに、湯川れい子さんも混じっていた」と赤瀬川さんの幼なじみが話していたらしい。2階右の窓がアトリエ上部、左が寝室の窓となる。寝室の下階には台所、風呂、トイレが納まる。
座談のなかで吉村、赤瀬川の記憶に刺激され、磯崎さんは次第にその頃のことを思い出し、デビュー作であることを認めてくれた。原案を描いて渡し、細部までは見なかったとのこと。
座談で語られながら、建築から離れるからと『新建築』(2011年4月号)掲載の座談会記録から省かれた磯崎の回想を記しておこう。ネオ・ダダ(*)展がここで開かれたときのこと、吉村が、割ったビール瓶を取り付けた細い通路をつくり、そのあいだを恐る恐る通り抜けた。こうしたハチャメチャな表現に慣れた磯崎は、その後世界のどんな破壊的表現に接しても、驚くことはなかったという。
3人が次々に繰り出す昔話を聞きながら、建築の力を思った。空間が3人の記憶と想像力を刺激し、過ぎし日のシーンがいきいきと蘇ってくる。
新宿ホワイトハウスを根城に60年、ネオ・ダダが結成され、吉村、赤瀬川、篠原有司男(うしお)、荒川修作などが前衛的表現運動を開始し、丹下健三研究室の大学院生だった磯崎も、夜になると新宿ホワイトハウスに入り浸っている。
ネオ・ダダ結成の中核となった吉村、赤瀬川、風倉匠(しょう)は磯崎と同じく大分の出で、大分の旧制中学在学中から地元の画材店のキムラヤを借りて「新世紀群」なるグループを結成していたが、それをうながしたのは上京して東京大学に入ったばかりの先輩磯崎で、東京の芸術の新しい動きを後輩に伝え、「新世紀群」の名も磯崎がつけた。
大分のキムラヤの新世紀群から新宿ホワイトハウスのネオ・ダダへと、戦後を代表する前衛芸術運動の熱気は移ることになるが、細かく歴史をたどると、キムラヤと新宿ホワイトハウスの中間に国分寺の児島善三郎アトリエ時代がある。
上京した吉村が児島善三郎の旧アトリエを借りて住み、そこに赤瀬川も転がり込み、後に赤瀬川が小説に書くような“新しい絵画表現を求めながらどうしていいかわからない”鬱屈した日々を送っている。その後、吉村は新宿ホワイトハウスに移り、ためた鬱屈が一気に爆発してネオ・ダダとなった。
磯崎さんを旧児島アトリエの跡に案内したとき、私が、戦後の突発的前衛運動の代表として名高い福岡の「九州派」(57年本格的にスタート)を念頭に置いて、「大分派とでもいうべき動きがあり、大分、国分寺、新宿と移って爆発した、と考えてもいいんですか」と問うと、磯崎さんは「今から思うとそう言える」。
ネオ・ダダに行き着く大分派が“建築家磯崎新の成立”に与えた影響は一考に値する。
磯崎は大分中学時代、親友の赤瀬川隼(しゅん)(原平の兄)らと演劇部に所属して舞台を制作し、また絵を描いていた。大学に入ってからも駒場時代(教養課程)はもっぱら絵を描き、先に見たように大分では「新世紀群」の先導役を果たした。その頃、磯崎本人は空襲、敗戦といった社会的体験と個人的体験から虚無を抱え込んでいた。
こうした来歴は、そのままネオ・ダダの芸術破壊的にして自己破滅的な表現活動に直結するはずなのに、なぜ飛び込まなかったのか。別の言い方をすれば、そうした虚無や破滅とその後の建築活動はどうつながるのか。
ネオ・ダダ結成の中核となった吉村、赤瀬川、風倉匠(しょう)は磯崎と同じく大分の出で、大分の旧制中学在学中から地元の画材店のキムラヤを借りて「新世紀群」なるグループを結成していたが、それをうながしたのは上京して東京大学に入ったばかりの先輩磯崎で、東京の芸術の新しい動きを後輩に伝え、「新世紀群」の名も磯崎がつけた。
大分のキムラヤの新世紀群から新宿ホワイトハウスのネオ・ダダへと、戦後を代表する前衛芸術運動の熱気は移ることになるが、細かく歴史をたどると、キムラヤと新宿ホワイトハウスの中間に国分寺の児島善三郎アトリエ時代がある。
上京した吉村が児島善三郎の旧アトリエを借りて住み、そこに赤瀬川も転がり込み、後に赤瀬川が小説に書くような“新しい絵画表現を求めながらどうしていいかわからない”鬱屈した日々を送っている。その後、吉村は新宿ホワイトハウスに移り、ためた鬱屈が一気に爆発してネオ・ダダとなった。
磯崎さんを旧児島アトリエの跡に案内したとき、私が、戦後の突発的前衛運動の代表として名高い福岡の「九州派」(57年本格的にスタート)を念頭に置いて、「大分派とでもいうべき動きがあり、大分、国分寺、新宿と移って爆発した、と考えてもいいんですか」と問うと、磯崎さんは「今から思うとそう言える」。
ネオ・ダダに行き着く大分派が“建築家磯崎新の成立”に与えた影響は一考に値する。
磯崎は大分中学時代、親友の赤瀬川隼(しゅん)(原平の兄)らと演劇部に所属して舞台を制作し、また絵を描いていた。大学に入ってからも駒場時代(教養課程)はもっぱら絵を描き、先に見たように大分では「新世紀群」の先導役を果たした。その頃、磯崎本人は空襲、敗戦といった社会的体験と個人的体験から虚無を抱え込んでいた。
こうした来歴は、そのままネオ・ダダの芸術破壊的にして自己破滅的な表現活動に直結するはずなのに、なぜ飛び込まなかったのか。別の言い方をすれば、そうした虚無や破滅とその後の建築活動はどうつながるのか。
だいぶ昔、このあたりについて確かめておく必要を覚え、業界紙か何かの座談会にかこつけて赤瀬川さんに同行してもらい、磯崎邸に聞きに行ったことがある。答えは、次のように記憶している。
「ネオ・ダダを間近に見聞し、これでは建築は不可能だから、前衛表現からは一歩身を引いた。このことを自分は忘れてはいけないと思い、前衛運動を突き進んで自殺したフランスの建築家の版画を玄関に掲げ、自戒とした」
仲間たちが前衛表現の道を突き進んだ果てに、断崖の縁から谷間に身を投ずるのを目撃しながら、自分は立ち止まった。そういう青年に挫折感が湧かなかったとは考えにくい。
この挫折を経て、建築家磯崎新が誕生したのではないか。前衛的表現と思想にはつねに寄り添う発言を重ねながら、実際につくる建築においては一定の距離を保ち、決して縁からは跳ばない磯崎新。縁で立ち止まるのは、建築家をほかの表現者と分かつ哀しい宿命というしかない。
この宿命への自覚をずっともちつづけたことが、戦後の建築界と文化全般のなかで磯崎を際立たせてきたのではないか。
*ネオ・ダダ:「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の略。1960年に、吉村益信、赤瀬川原平、荒川修作、篠原有司男、風倉匠らが、新宿ホワイトハウスを拠点に始めた前衛芸術運動。
所在地 | 東京都新宿区 |
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主要用途 | 住居+アトリエ(現在はカフェ) |
設計 | 磯崎 新 |
施工 | 不明 |
敷地面積 | 約80.57㎡ |
建築面積 | 約44.69㎡ |
延床面積 | 約59.58㎡ |
階数 | 地上2階 |
構造 | 木造 |
竣工 | 1957年 |
図面提供 | 宮田 佳 |
東京新聞
「事前に終戦情報、私も」 「近く陛下の放送ある」「8月11日に降伏の内報」
8月12日に終戦の情報を聞いた、と話す増田美代子さん=静岡県で |
日本がポツダム宣言受諾を決めた一九四五年八月十日以降、昭和天皇が終戦を告げた「玉音放送」の前に、降伏の情報が国内の市民にも広まっていた可能性があることが本紙読者の証言や記録などで分かった。読者の増田美代子さん(87)=静岡県=は「十二日に『もうすぐ戦争が終わる。近く天皇陛下の放送があるので聞くように』と職場の上司に言われた」と証言。都内の古書店では、書籍に「十一日に降伏の内報が伝えられた」と書いたメモが見つかった。 (上田融)
増田さんによると、四四年三月から、軍用機のエンジンを生産していた中島飛行機武蔵製作所(現東京都武蔵野市)の付属病院で、職員らに食事を提供する栄養部員として勤務。空襲が激しくなっていた四五年一月以降は清瀬市にある同病院の分院に勤めた。
八月十二日は午後四時ごろ、院長で画家の宮田重雄(一九〇〇~七一年)が一階廊下で夕食準備中の栄養部女性幹部を呼び止め、終戦を知らせたという。
宮田の著書「竹頭帖(ちくとうちょう)」(一九五九年、文芸春秋新社)には「八月十二日の朝私が(中島の)工場へ行くと、向こうから庶務部長が駆けてきて、今日無条件降伏を受諾したという確報が入りました、と言った」という部分があり、増田さんの証言を裏付ける。天皇の放送には触れていない。
1945年8月11日に降伏を知らされた、とする鹿島龍蔵のメモ |
宮田の孫の佳子(けいこ)さん(55)は「祖父は中島から政府や軍の情報を知ることができた。院長室では日米の軍事技術の差など悲観的なことも本音で話せたようだ。天皇の放送のことは分からない」と語る。
一方、メモがある書籍を所蔵するのは、東京都千代田区神田神保町の古書店「三茶書房」。四六年刊行の太宰治著「八十八夜」の単行本裏表紙の見返しに「八月十一日 寅チャン降伏ノ内報ヲ伝フ」とあるのを、経営者の幡野武夫さん(72)が見つけた。
幡野さんは十数年前、さいたま市の鹿島長次さん(76)から祖父の遺品である書籍など数百点を買い取った。祖父はゼネコン大手・鹿島の創業家に生まれた鹿島龍蔵(りゅうぞう)(一八八〇~一九五四年)で、芥川龍之介ら文化人との交流があった。
メモは日記の書き写しとみられ、家族の動静を中心に記述。長次さんは「筆跡は本人のもの。玉音放送時、母が驚かなかったのを覚えている。事前に終戦を知っていたためでは」と話す。
「寅チャン」は鹿島組(現鹿島)に勤めていた龍蔵の親族男性とみられる。同社は軍や政府の事業を受注、情報を知り得る立場だったとの見方もある。
◆識者 閣僚におしゃべりいたかも
作家の半藤一利さんは「八月十一~十二日の時点でうわさとして終戦の情報を聞いた、という日記は複数読んだ。閣僚の中におしゃべりな人がいて知人らに話したのかもしれない」と指摘する。天皇の放送については「天皇自身は十一日の時点で放送を行う意思は示していたが、十二日時点では日程も決まっていない。一般の人が知るのは無理ではないか」と述べた。
一方、「昭和天皇玉音放送」の著作がある川上和久・国際医療福祉大教授は「ポツダム宣言受諾決定前から、政府内には天皇の放送を求める声があった。受諾決定後、終戦に向けた準備に入ったので、事務方として放送を企画した役人がいるはずだ。彼らが親しい人にこっそり伝え、それが広まっても不思議ではない」と指摘する。
<終戦直前の動き> 連合軍が日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言の受諾は8月10日未明の御前会議で決まり、海外には伝わった。日本では軍のクーデターの恐れなどから、一般国民には知らされなかった。昭和天皇実録などによると、天皇は11日に放送を承諾。14日の閣議で15日に放送すると決定し、14日午後9時「15日に重大放送が行われる」と公式にラジオで予告された。
本紙は、読者の福田きくさん(88)=東京都文京区=の「12日に当時勤務していた神奈川県内の陸軍病院で院長付下士官から、3日後に重大放送があると知らされた」とする証言を取材。9月23日朝刊で報じた。
進歩向上の歴史観 根底に潜む「虚無」の影 2016年12月7日付 中外日報(社説)
先進国、発展途上国という区別が当たり前のように行われている。このような区別は、歴史は同じ道筋を通って一方的に進歩し続けるという歴史観を前提にしている。
古来、歴史については、人類は絶えず向上するという見方と、逆に堕落してゆくとする対立した見方とがあった。後者の一つの代表は、正しい宗教の在り方が世から段階的に失われてゆくという仏教の末法思想である。新約聖書にも、人類はキリストによる救済にもかかわらず、やがて悲惨な時期を迎えて終末に至るという歴史観がある。
近代以降、歴史には栄光と悲惨との両面があるが、世は悪くなるばかりだといった見方は、一般には受容されていない。逆に人類は絶えず進歩向上するという歴史観が、ダーウィンの進化論、ヘーゲルの絶対精神の自己展開、マルクスの唯物史観などによって基礎付けられ、自由経済、民主化、人権の尊重が先進性を特徴づけるというように常識化している。
しかしやはり別の見方もあり得る。我が国についてみれば、戦時中は「尊いもの」一切が国家と天皇に集中していたが、その構造は敗戦と天皇の人間宣言によって解体された。日本人は共通の価値と目標を喪失したのである。戦後の「虚脱」はやがて復興の熱意に取って代わられたが、高度成長はバブルの崩壊で終わりを告げ、体制変革の情熱もソ連の解体と革命勢力の変質によって衰退した。以来続いている沈滞の傾向は、共通の目標の喪失という意味ではひそかなニヒリズムの浸透を思わせる。
軍事的成功や経済的繁栄が都市化をもたらし、都市生活の中で育まれた文化が人間性への反省を産み、自我のむなしさが自覚されてニヒリズムに陥るという例は古代にもある。古代ギリシャのアテネはペルシャ戦争に勝利して未曾有の繁栄の時期を迎え、優れた思想家を生み出した。ソクラテス、プラトン、アリストテレスである。
しかしそれ以後、ストア派、エピクロス派、アカデミア派は消極主義、懐疑主義に陥ってゆく。世にはニヒリズムが蔓延し、やがてはローマ帝国も没落してキリスト教が精神文化を支えることとなった。シュペングラーの『西洋の没落』に始まるいわゆる「文明史観」は、西欧古代末期と現代との類似を指摘して、歴史の一方向的な進歩を否定し、文明圏の繁栄の果てに衰退と虚無の影が忍び寄るとする。実際、宗教を喪失した現代文明は、いくら「進歩」しても、やがて自我(無明の我)の底は虚無だと気付くことになろう。