東京新聞

「事前に終戦情報、私も」 「近く陛下の放送ある」「8月11日に降伏の内報」

8月12日に終戦の情報を聞いた、と話す増田美代子さん=静岡県で

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 日本がポツダム宣言受諾を決めた一九四五年八月十日以降、昭和天皇が終戦を告げた「玉音放送」の前に、降伏の情報が国内の市民にも広まっていた可能性があることが本紙読者の証言や記録などで分かった。読者の増田美代子さん(87)=静岡県=は「十二日に『もうすぐ戦争が終わる。近く天皇陛下の放送があるので聞くように』と職場の上司に言われた」と証言。都内の古書店では、書籍に「十一日に降伏の内報が伝えられた」と書いたメモが見つかった。 (上田融)

 増田さんによると、四四年三月から、軍用機のエンジンを生産していた中島飛行機武蔵製作所(現東京都武蔵野市)の付属病院で、職員らに食事を提供する栄養部員として勤務。空襲が激しくなっていた四五年一月以降は清瀬市にある同病院の分院に勤めた。

 八月十二日は午後四時ごろ、院長で画家の宮田重雄(一九〇〇~七一年)が一階廊下で夕食準備中の栄養部女性幹部を呼び止め、終戦を知らせたという。

 宮田の著書「竹頭帖(ちくとうちょう)」(一九五九年、文芸春秋新社)には「八月十二日の朝私が(中島の)工場へ行くと、向こうから庶務部長が駆けてきて、今日無条件降伏を受諾したという確報が入りました、と言った」という部分があり、増田さんの証言を裏付ける。天皇の放送には触れていない。

1945年8月11日に降伏を知らされた、とする鹿島龍蔵のメモ

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 宮田の孫の佳子(けいこ)さん(55)は「祖父は中島から政府や軍の情報を知ることができた。院長室では日米の軍事技術の差など悲観的なことも本音で話せたようだ。天皇の放送のことは分からない」と語る。

 一方、メモがある書籍を所蔵するのは、東京都千代田区神田神保町古書店「三茶書房」。四六年刊行の太宰治著「八十八夜」の単行本裏表紙の見返しに「八月十一日 寅チャン降伏ノ内報ヲ伝フ」とあるのを、経営者の幡野武夫さん(72)が見つけた。

 幡野さんは十数年前、さいたま市の鹿島長次さん(76)から祖父の遺品である書籍など数百点を買い取った。祖父はゼネコン大手・鹿島の創業家に生まれた鹿島龍蔵(りゅうぞう)(一八八〇~一九五四年)で、芥川龍之介ら文化人との交流があった。

 メモは日記の書き写しとみられ、家族の動静を中心に記述。長次さんは「筆跡は本人のもの。玉音放送時、母が驚かなかったのを覚えている。事前に終戦を知っていたためでは」と話す。

 「寅チャン」は鹿島組(現鹿島)に勤めていた龍蔵の親族男性とみられる。同社は軍や政府の事業を受注、情報を知り得る立場だったとの見方もある。

 幡野さんは「東京裁判開廷前、戦争犯罪に問われることを恐れて日記を燃やし大事な部分は本などに書き写した人が大勢いた」と話していた。

◆識者 閣僚におしゃべりいたかも

 作家の半藤一利さんは「八月十一~十二日の時点でうわさとして終戦の情報を聞いた、という日記は複数読んだ。閣僚の中におしゃべりな人がいて知人らに話したのかもしれない」と指摘する。天皇の放送については「天皇自身は十一日の時点で放送を行う意思は示していたが、十二日時点では日程も決まっていない。一般の人が知るのは無理ではないか」と述べた。

 一方、「昭和天皇玉音放送」の著作がある川上和久・国際医療福祉大教授は「ポツダム宣言受諾決定前から、政府内には天皇の放送を求める声があった。受諾決定後、終戦に向けた準備に入ったので、事務方として放送を企画した役人がいるはずだ。彼らが親しい人にこっそり伝え、それが広まっても不思議ではない」と指摘する。

<終戦直前の動き> 連合軍が日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言の受諾は8月10日未明の御前会議で決まり、海外には伝わった。日本では軍のクーデターの恐れなどから、一般国民には知らされなかった。昭和天皇実録などによると、天皇は11日に放送を承諾。14日の閣議で15日に放送すると決定し、14日午後9時「15日に重大放送が行われる」と公式にラジオで予告された。

 本紙は、読者の福田きくさん(88)=東京都文京区=の「12日に当時勤務していた神奈川県内の陸軍病院で院長付下士官から、3日後に重大放送があると知らされた」とする証言を取材。9月23日朝刊で報じた。