行くところまで行かないと止まらない - アヴァンギャルド精神世界

◎時代の地獄化と天国化

この30年バーチャルリアリティーの進展によって、ゲームなど仮想の世界に閉じこもって、自分の欲望とか感情に没入し自分をコントロールできなくなっている人が増えている。これは、最近のコロナ禍一色のSNSの中でも、コロナの話題などどこ吹く風で、最新のゲームの進捗を自慢したり、裏技、珍アイテムを自慢したりと、異彩を放っていることで、気づかされる。

クンダリーニ・ヨーギ本山博は、カルトの特徴は、以下の三つだとする。
1. 自分の教団の教えだけが正しいと主張し、他の教団をやっつけること。
2. いっぱいお金を要求すること。
3. 各人が自分で考えて行動する自主性自立性を奪って、信者をカルトの長の道具にしてしまうこと。

カルトの定義は他にももっと精緻なものもあるが、これは端的でわかりやすい。

モバゲーなどのバーチャルリアリティーゲームは、ゲームの世界と言うプチ・カルトを成立させ、その中では決まったルールでしか行動できないのが当たり前であって、金を払わせ、自分の経験値とか持ち物が増えるようにさせる。だが、あらゆる行動はゲーム会社の意図をはみ出ることはできない。

これは、ゲームを通じてカルト信者の行動パターンが当たり前であるという通念を社会全体で植え付けられているとも思える。

バーチャルリアリティとはイメージとか想念、感情の世界だが、それは現実に近いだけに現実に相当に影響を与えてくる。 

ゲームとか自分の想念、感情の世界の中で、利己的、経済性と便利を優先する行動は、ロジカルではあるが、その行動は地獄的である。そういう人が増えると、この世は地獄となる。

利己的であっても挨拶礼儀を欠かさなければ、社会的に非礼ではないとして過去何千年やってきたのだが、利己的であるということは地獄の拡大再生産であって、ここに来てバーチャルリアリティーの発展によりそのペースが急加速し急拡大している。

20世紀後半から食料、エネルギーの世界的増産と交通機関の発達により、世界は狭くなり70億人を超えたが、神知る人を少しは残さなければならない。

このようなやり方で、地上に地獄が拡大し過ぎると、助かる命も助からないということはあるので、その地獄を地上に拡大せんとする異形のペースが、ある一定の閾値を越えたのではないかと思う。

だが逆転し始めると、行くところまで行かないと止まらないということはある。

https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/887d89b46c46152d53aabcea14828618 より転載

*本山博先生の著書に「仮想から現実へーコンピューター時代における良心の確立」があります。”急速に拡大するコンピューター技術による三次元の仮想世界。その恩恵の積極利用と、恐るべき落とし穴について語る。”

 

世界はどこに行くのか? ーミシェルの占星術的見方

連日テレビでコロナのことが取り上げられています。子供達が家に居て、家事と育児も大変でマスクも無くて不安ばかりで、もう限界!とストレスの溜まっている方々がいる一方、コロナで子供達が家にいるので一緒に料理を楽しんだり、在宅勤務のお父さんも料理にハマってくれました、普段より家族の会話も多くなりました、という方もいた。

 

マスクといえば、手作りマスクの作り方を教えてくれた知り合いのおば様は、コロナで出かけなくなった分、家で色々工夫してマスク作ったり手仕事楽しんでるのよ!とお元気だった。わたしは普段はあちこち行きたい方だが、こうして一箇所にいようと腹を決められるのもこういう状況のおかげ、色々行ったりしたりしない分、瞑想や内省の時間が多く取れてそれはそれでとても有意義。

 

9.11.や3.11.また世界各地での大災害があっても、自分と関係ない国/都市だと、ショックは少ない、が、今回のコロナは中国から始まって、最初は他国の出来事だったのがあっという間に世界中に広がってしまいパンデミックとなった故に、地球上のほとんどの国と人々が同時に体感し直面している事件となった。

こういうことは全体と個の現実的なあり方と共に意識の大改革を誘発するでしょう。

 

物事どう捉えるかで今後自己の存在する世界が変わってくるのではないでしょうか。

 

以下ミシェルの占星術的見方より

 

海王星の話はたびたび取り上げてきて
大雨や海難になりやすい海王星時代という話も色々なところで話してきましたが、
海王星は音楽、ダンス、お酒や薬、夢や妄想など変性意識をシンボルするものなわけです。
その特性は境界線のなさ、つまり共鳴力でもあり。
つまり
陶酔を伴うもの
モヤモヤと伝播するもの
海にまつわるもの
見えないけど確かに何かある感じ
これらは皆、海王星的なものなのです。 

そして最近のコロナウィルスもまさに海王星的。
個人のチャートでは海王星という天体が病人を示すこともあり
「病」に関わりやすい天体なのです。
モヤモヤと伝播するというのもそのままです。

伝染性の高いものが流行りやすいという話は
2017年の拙著「なぜあなたはまだ幸せではないのか」にも少しだけ明記しました。
海王星魚座に在位する2012年〜2025年までは
本来の海王星パワーがみなぎっている時代です。

そこに良い悪いはなく、あるのは私たちにとって都合良いか都合悪いか ということではありますが私たちにとって都合良さそうな海王星現象としては
理想を膨らませる、音楽やダンスの影響が強くなる、瞑想ブームが起こる、ファッションが多彩になる、心理学やスピリチュアルなものが発展する、新薬が次々に開発される、等など。
一方
私たちに都合悪そうな海王星現象としては
大水や冷えによる災害が増える、伝染病が流行りやすい、精神疾患が増える、薬物やアルコール依存が増える、不安感が広がりやすい、詐欺など人を欺く事件が増える、等など。

今年は天体配置としては
20年に1度という「大きな仕事ができる」「努力が実る」年ではありますが、いくつか条件つきなので黙っていて誰しもそうなるというものではありません。
でも起こることはどんなことでも「取り上げるに値する」ものとなりやすいはずです。 

で、日本でのコロナは
2月後半から3月上旬の水星逆行に乗っかるように広がったような観があります。
3月20日からは太陽が牡羊座に入り、そこから宇宙時間の新しい一年が始まることになりますから
視点は切り替っていくであろうと思われます。
ニュースを見る限りでは、コロナどうする?よりも経済問題といった感じなのかもしれません。
また、4月から6月だけ水瓶座に進む土星からすると、人類と科学 対 経済問題 のような趣もあります。
その時は土星天王星がスクエアを作りますから、新たな課題の提示もされそうです。

そして5月の連休明けからはぐんと流れが変わることになります。
当初はそこまで以前に収束というシナリオも確かにあったと思うのですが、それを世界で選択した可能性はどうも低いのかもしれません。
ただ日本で言うなら最初の区切りは春分の日ころで
次がゴールデンウィーク明けのタイミングと思われます。
そして6月下旬でかなり収束なのではないかと、今のところ思っています。

とはいえ

伝染性の病は悪いものだと決めつけてしまうと
天体から読めることは少なくなってしまうでしょう。
天体たちから得られるヒントを使いこなせなくなるからです。 

何事も主観的に捉えると、欲しい答えを探して探して探しまくり、欲しい答えに辿り着くまで他の可能性を受け入れなくなってしまうものです。

そうならないためにも
もの凄いスピードで伝播する「不安や恐れ」を回避するのではなくて、恐れおののいている自分もそのまま認めてあげたいものです。」

 https://michell.pua-melia.com/2311

 

松村潔先生の占星術からのコロナウイルス

20200307 新型コロナウィルスは冥王星土星なのか

最近、メールで、今流行している新型コロナウィルスは、冥王星土星の合なのですかという質問があった。質問は一か月前くらいなのか、もっと最近かよくわかりませんが。
新型コロナウィルスは、冥王星土星ではありません。
しかし冥王星土星の合があらわす百も千もの象意の中に、新型コロナウィルスは含まれているでしょう。

土星は壁を作るとか、区画をきっちり定義する、などの作用です。犬と猫は違うとか、タンパク質と脂肪は違うという分類の定義をするのは土星作用です。
土星有機体を独立させ、外界から切り離します。
で、冥王星は外界との扉とか、穴を開けるという作用です。
土星が定義した区画に穴をあけて、侵入したり、外に出したりします。
新型コロナウィルスは区画を破り、肺や心臓を壊してしまい、また水際対策も役に立たず、国境を越えて侵入します。通常の境界線としての土星機能が打ち破られるというのは、冥王星土星の合になるわけですね。
でも、たとえばスポーツの記録を破るというのも冥王星土星であり、冥王星土星作用には多数の意味に適用できるので、それを新型コロナウィルスだけに落とし込む、つまり象を針の穴に通すようなことはできません。
なので、新型コロナウィルスに気を取られていると、その時に、ほかの冥王星土星作用が働いていることを見落とすことになります。
占星術は広範な領域をカバーするもので、新型コロナウィルスとか蔓延するみたいな細かい話に落とし込みにくいです。秋山真人氏が、RVで、ウィルス蔓延、マスクが注目されるみたいなことを予言したらしいですが、占星術はここまで小さい範囲に落とし込めません。

生活の中で、身近なところで、壁が破られている現象を確認してみましょう。常識、決まり切っているもの、安全を保つもの、ここに穴があけられています。合のアスペクトは1月13日がピークで、山羊座の23度、23度は伸縮するので、土星には伸縮性があります。

日本がこの新型ウィルスにあまりにも警戒心が薄く、お気楽にしていることで、世界中から驚かれていますが、集合意識の日本としては、もっと罹患率とか死亡率を上げたいと思っているのではないかとも思います。ここにきて王仁三郎の日本人はほとんど生き残らないという説を取り上げている人もいますね。これでオリンピックが中止になったりすると、その後の経済不況がある程度は防げるかもしれないけど、たいした改善効果ではないでしょう。日本がいま鎖国状態になると、これは日本がダイヤモンドクルーズ号になるという感じです。
わたしの場合には、この冥王星土星の合は、死と生の壁が壊れているのではないかという印象で、最近死んだ人が、死ぬ一週間前からずっと近づいてきていたけど、死後も近くにいて、時々強迫的に近づいてきていて、壁がないと感じています。日常生活に支障があるのかというと、支障はないです。ただ夜中に目覚めたときに、すぐ近くにいるので驚いたりしますが、それも三分しないうちに慣れてきます。夢には出てこない。というのもわたしは夢でもっと遠くに飛ぶので、死者がついてこれないみたいです。目覚めた直後あたりの位置が、一番近づきやすいらしい。

日本人の無警戒、「仏的」姿勢に、怒らないようにしましょう。わざとそうしているのかもしれないので。でも日本人の遺伝子は、この新コロナウィルスでは重篤になりにくいらしいという話もあります。あきらにか中国を狙った型ではないか、と。

http://from20180211.blogspot.com/2020/03/20200307.html

 

習近平の武漢入りとWHOのパンデミック宣言

news.yahoo.co.jp

習近平が10日初武漢入りし中国が新型コロナから脱出したシグナルを発信すると、11日にはWTOパンデミック宣言をした。世界に新型コロナを蔓延させた真犯人が習近平なら、WHO事務局長は共犯者だ。

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 習近平は新型コロナとの戦いを「人民戦疫」と名付けて全国人民の参加を求めた。「戦役」という言葉を、発音が同じ「戦疫」に置き換えて、新中国(中華人民共和国)が誕生した時と同じくらいの生死をかけた戦いなのだと叫び続けた。

その戦いに「勝利したのだ」という、言うならば「勝利宣言」なのである。

なぜなら客観的データが、それを物語っているからである。

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もっとも中国庶民の間では「真の功労者は誰か」という意味で、習近平の行動を「摘桃子(ズァイ・タオズ」(他人の栄誉を横取りして自分の功績とする)という言葉がささやかれているが。

習近平武漢入りに合わせてWHOがパンデミック宣言

 3月11日、WHOのテドロス事務局長がパンデミック(世界大流行)宣言をようやく出した。中国における新規患者増加数の推移を見ながら、ここのところ、「ほとんどパンデミックに近い」という「奇妙な」表現を用いてきたが、習近平武漢入りという明確なシグナルが出されて「中国はもう安全」というのを確認した上でパンデミック宣言を出すという、この狡猾さ。

 安倍首相の習近平に対する忖度とそっくりだ。

 逆に習近平に忖度する人物は、こういうあざといパターンを取るという「模範的モデル」を示してくれていて分かりやすい。

 1月27日付のコラム<「空白の8時間」は何を意味するのか?――習近平の保身が招くパンデミック>や1月31日付コラム<習近平とWHO事務局長の「仲」が人類に危機をもたらす>で述べたように「あってはならない蜜月」によって世界に危機をもたらし続けてきた。

 そもそも1月23日の時点で緊急事態宣言を出すべきであったし、それを1月30日まで延期したとしても「中国への(&中国からの)渡航・交易の制限を設けない」という、緊急事態を骨抜きにするような忖度をしていなければ、安倍首相も習近平に忖度して湖北省だけに対象を絞ることもできなかっただろう。

 その意味でパンデミックの真犯人は習近平で共犯者はテドロス、そして日本国民をここまでの恐怖に追い込み日常生活や経済活動にも壊滅的ダメージを与えている犯人は「習近平国賓として来日させることを最重要視した」安倍首相だということができる。

 武漢入りをしたからと言って、習近平に今さら「英雄気取り」をさせることは許されない。きっと習近平はこの後、「人民戦疾」に勝利し、「中華民族を救った英雄」として自らを位置づけていくことだろう。

 人類はそのような愚かな集団であってはならない。安倍政権およびその取り巻き連以外は、そのような愚に陥らないことを信じたい。」

中国武漢で野生動物を食用(犬猫鼠鼬蝙蝠狼サンゼンコウ等)に取引し、ウイルスを発生させ、世界中にばらまいて英雄気取りさせることは許されない。このウイルス自体が自然から人間への警鐘だ。 

遠藤誉氏の鋭い分析以下でも多く読める

https://grici.or.jp/1138

【施 光恒】日本の平等 | 「新」経世済民新聞

 

【施 光恒】日本の平等

From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

おはようございます(^_^)/

私、少し前から、「福岡県明るい選挙推進協議会委員」というボランティア的仕事を務めています。
県の選挙管理委員会などと協力して、みんな選挙に行きましょう!とか、政治に関心を持ちましょう!とか、呼びかけるのが主な役割です。

昨日は、その仕事で、福岡県の西部にある糸島市で講演をしました。
演題は、「民主主義と日本文化──伝統を明日に活かそう!」というものでした。

現代の日本人は、日本の歴史や文化を自虐的というか、悪くみすぎる傾向がありますよね。
日本は、どこかの国とは反対に、「悪いものは自分たちの伝統であり元々あるものだ。他方、良いものは外からやってきたのだ」と考える傾向があるような気がします。

当メルマガの私の前回の記事で触れた「体罰」もそうですし、「民主主義」に関しても、そのケがあると思います。

つまり「民主主義」に関していえば、「日本の伝統は、非民主主義的で、権威主義的である。オカミは威張っていて専制的だった。身分の低い者はずっと虐げられてきた」などのような見方です。

ですが、日本の歴史や文化には、民主主義的な要素といえるものが結構あります。
昨日の講演では、日本の伝統の中にある民主主義的要素をいろいろと指摘して、そういうよいと思われるところを受け継いで、時代に合うかたちで伸ばしていこう!というような話をしました。

話題の一つとして、「和歌の前の平等」という考え方に触れました。
もうかなり前ですが、評論家の渡部昇一氏が『日本語のこころ』(講談社現代新書、1974年)で論じていたものです。

西洋の平等観の基礎には、キリスト教的な「神の前の平等」や、「法の前の平等」といった理念があると言われますよね。

他方、渡部氏によれば、日本の平等感覚の基礎にあるのは、神や法の前の平等ではなく「和歌の前の平等」だというのです。和歌の詠み手として、人々は、身分に関係なく平等だというわけです。実際、『万葉集』には、皇族や貴族だけではなく、地方の農民や防人、遊女の歌も収められていますよね。

だいぶ以前に「和歌の前の平等」という見方について初めて読んだときは、「おもしろいけど、ホントにそういえるのかな?」と少々ピンと来なかったのですが、最近、この見方、わりと説得力あるんじゃないかと感じています。

歴史社会学者の池上英子氏(米国ニュースクール大学大学院教授)は、明治日本が欧米の制度を学び急速に近代化できた理由の一つとして、江戸時代の芸事のサークルに注目しています(『美と礼節の絆──日本における交際文化の政治的起源』NTT出版、2005年)

江戸時代には、俳句をはじめ、お茶やお花など芸事のサークルが非常に多くできていました。そして士農工商の身分はあまり意識されず、芸事のサークルには各層の多数の人々が参加していました。

池上氏は、芸事のサークルは、江戸時代の人々が、身分に囚われないヨコの人間関係を学ぶ場として機能したのだというのです。江戸時代のあいだに、武士や裕福な商人のみならず、一般の町人や農民まで含む多くの人々が芸事に親しみ、身分制度から離れたヨコの人間関係のありかたを学んでいた。そのことが、明治の近代化をスムーズに進めることができた理由の一つだと論じています。

たとえば俳句のサークルです。江戸時代の俳句のサークルでは、武士も町人も農民も、男性も女性も、都市の人も田舎の人も、俳句を通じて身分差や性差や地域差にあまり囚われず交流することができたようです。

たとえば、芭蕉が「奥の細道」を旅することができたのは、東北の当時のひなびた地域でも、俳句愛好家がたくさんいて各々の場所で歓待してくれたからでしょう。農村にまで、俳句に親しむ人が大勢いたようです。

また、女性が句会に参加することも決して珍しいことではなかったようです。女性の俳句だけを集めた句集も、江戸時代にたくさん出ています(別所真紀子『俳諧評論集 共生の文学』東京文献センター、2001年)。

朝顔に つるべ取られて もらい水」(加賀千代女(かがのちよじょ)(1703−1775)

などは有名な句ですよね。

無名の子どもの俳句も、残っています。『俳諧三河小町』(1702年)という句集には女性の句だけを集めた巻があり、次のような女児のかわいらしい句が載っています。

「いまいくつ 寝たらば父様 羽根つくぞ」(大坂 八歳 はる)

300年以上前の子も、お正月に、お父さんと羽根つきをしたりして遊ぶのを楽しみにしてたんですね。いいなあ。
(^_^)

ちょっと脱線しました…
(-_-;)

話をもとに戻しましょう。

渡部氏や池上氏の議論から推測できるのは、日本文化には、「感受性の平等」とでもいうべき感覚が伝統的にあったのではないかということです

そのときどきの時代状況に応じて身分や職位など上下の人間関係が設定されるとしても、美しさやうれしさ、かなしさなど「もののあはれ」を感じとる点では、人々は根本的に平等で同じである。つまり、感受性の主体という点で、人は皆、平等であり仲間である。そういう感覚が、日本人には昔から備わっていたのではないかと思います。

この感覚は、現在のわれわれにも受け継がれているといえるでしょう。

たとえば、地方自治体が小中学生などからよく募集している「人権標語」などをみているとそれを感じます。
だいたいこんな感じのが多いですよね。(以下は、2010年度、2011年度の福岡市の人権標語コンテスト入選作の一部)。

・悪口は 人も自分も 傷つける(小学生)

・持ってるか 傷付け言葉の ブレーキを(中学生)

・いじめたら キレイな心 涙色(小学生)

・わたしから みんなに広がれ 笑顔の和(中学生)

これらの標語は、「人は皆、傷つきやすい心をもっていて、悲しんだり、笑ったりする存在だ。その根本的な点で、人は結局、皆、平等であり、大事にすべき仲間なんだ」と言っていると解釈できると思います。

欧米的な「法の前の平等」「神の前の平等」とは、かなり違うところに根差した平等観だといえます。

日本の人権教育だと、欧米のように「法の前の平等」に訴える法学っぽい人権教育ではなく、「感受性の平等」に訴えかける文学っぽいやり方が一般的なようなんですね。

他に、「もののあはれ」を感じ取る「感受性の平等」という感覚がいまでも生きていることを示すもっと身近な例としては、お花見もあげられると思います。

お花見はいまでも結構、職場の人と行くことが多いですよね。お花見では、きれいな桜を前にして、「桜を美しいと思う心の点で皆平等であり、仲間である」という確認を半ば無意識に行っているといえるんじゃないでしょうか。

つまりお花見とは、桜を前にして心が動かされる共通の経験を通じて、皆の根本的な平等を確認し、職位や世代などを超えた職場の和を深める行事だとみることもできるでしょう。

またまた、だらだらと長くなってきました…
f(^_^)ポリポリ

で、結局何がいいたいかといえば、日本社会って、なんだかんだいっても人々は根本的には平等で仲間なんだという感覚が、昔からわりとしっかりある社会ではないだろうかということです。

国民の間にある根本的な平等感覚や仲間意識こそが、日本の国力の源泉なんですよね。今も昔も日本社会の強みは、格差が少なく、社会からひどく取りこぼされてしまう人々があまりおらず、大勢の一般庶民が積極的に社会参加し、活力を発揮し、協力するところにあるんだと思います。

会社の経営陣と従業員の給与の差が何百倍もあったり、「抵抗勢力などと称して国内に敵を作って上からの政治を進めていったりする近年の新自由主義というのは、やはり国柄に合わない気がします。

財界だけでなく農林水産業、大企業だけでなく中小企業、都市だけでなく地方──など社会の各層の声に耳を傾ける政治のほうが、合ってるよなあと思うんですよね…。

まとまり悪くなってしまって失礼しますた…
<(_ _)>

PS
TPP参加は、経済主権の喪失⇒民主主義の喪失の第1歩。
「グローバル資本家の植民地」韓国の二の舞にならないために、
いま、必要な準備とは?

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PPS
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